なぜ「どうでしたか?」が愚問なのか


子供国連の伊澤さんのワークショップを受けて以来「問い」と「忖度」の関係性について考え続けている。


伊澤さん曰く
「授業やワークショップの後に
 『どうでしたか?』と聞くのは絶対だめ」と

「そんな粗い問いは、生徒に丸投げしてしまっている。そこでは忖度が働きやすく、生徒の答えは決まって
 『とってもよかったです』
 『目からウロコでした」とか
 本人は何がよかったのか認識できてない。」


お恥ずかしい話、教師生活31年私は自分の授業の後に、毎度きっちりこの問い
「どうでした?」を聞いて悦に入っていた。

さぶっ


伊澤さんの話だったか、それとも私が読んだ論文の情報を足したのか、ここからの話は出どころを忘れてしまったが説明したい。
忖度が起こるのは私たちが群れで暮らす動物だから、DNAに刻み込まれているというもの。

いわば、生き残るためのツールらしい。


そらそうだ。私たちは1人では生きていられない。仕事や学校には
同僚、同級生、上司に先生など多数の人間と接しなければならない。
不登校でも仕事をしていなくても、買い物に行くとレジに並ぶ。
セルフレジというみょうちくりんな英語のマシンを選んでも動作がうまくいってないと、係の人がとんでくる。


そうなるとできるだけ揉め事は起こしたくないはずだ。怒ることはエネルギーを使う。自分の本心を表現するには、深い内省と人に嫌われる、少なくともめんどくさい奴だ、と思われるリスクが生じるし。誰だっていい人だと思われたい。さらに、他のみんなが肯定的な空気を作り上げているところに、水を差すと、誰もがささっと帰れない。もっと嫌われる。

とはいえ、自分の尊厳を守ったり、無理な要求を突きつけられたときには、野生の動物だろうが人間だろうが闘う必要はあるわけで。

きっとそれはファイナルファンタジーで
クリティカル技が出るときの、赤いゲージの溜まり方のようなもんなんだろうと思う。私もいつか、クリティカル攻撃をヒットさせてみたいものだ。って誰に?


ちょっと最後は話がそれてしまいましたが、
どうしてワークショップ後の「どうでしたか?」では誰も本心を語らないのか、に対する
考察でした。