無理して訳さなくても ええのに

大学1年生の娘のテストとレポート提出がほぼ終わった。

大学のキャンパスに行けたのは5回。

膨大な蔵書に惹かれ入学したのに、
志を同じくする同好の士に出会いたくて受験を頑張ったのに。
感染症が理由とはいえ、親としては可哀想で胸が痛い。

さて、そんな彼女のお疲れさん会の準備に
成城石井に2人で出かけた。
店内で流れていたのがこの曲、懐かしい感じさえもする,
『レリゴ〜〜』

娘が言う「なんで訳すんやろ、このままでよくない?」
私「ほんまにね。松たか子にも英語で歌わせてあげたかったわ。
英語の方が絶対にもっと朗々と歌い上げられるのに」



英語と日本語は親戚でもなんでもない。
日本の大学でもアメリカの大学でも何度も見た言語系統の図
「インドヨーロピアン言語」という
一大メジャー言語圏のトップスターが英語。
対して日本語はひとりぼっち。
Wikipediaにも「日本語は系統が未確認」と書かれている


なんでも日本は稀に見る翻訳大国らしい。
確かに私の好きな欧米の作家の作品もたくさん和訳されている。
便利だろうと思う、英語を使わない人にとっては。


しかし、なんでもかんでも、
必要ないと思われるものでも訳す癖は今の時代に必要なのだろうか。
カタカナではダメなのだろうか。レリゴーしかり。



そして、我が愛するVTSは「対話型鑑賞」とか言われる。
米国のVTSに尋ねてみたら
「それは全然違う」とのこと。
我が流派は
「30年以上の科学的データ集積と翻訳に裏打ちされた教育学」なのだ、と。

合気道のように、いろんな流派があるのはいいことだと思う。
しかしながら、私が日本で『VTS』とか『ビジュアルシンキングストラテジーズ』
(複数形、ストラテジーズです)
と口にするたびに「ああ、対話型鑑賞ね」と決めつけられるのが辛い。
違う流派も存在します。
どっちかというと世界では我が流派の方が知られております。
英検もあるけど、TOEFL か IELTSなのよ、と同じ感じです。



ここで翻訳文化について考えたい。
対話型鑑賞、こういう、一見すると納まりのよい名詞句には要注意なものがいくつかある。
対話型鑑賞がその手の西の横綱なら、東の横綱は「クリティカルシンキング=批判的思考」。

実際は、critical thinkingという概念は、
このように漢字5文字でサクッと表せるものではないと私は強く思う。
尊敬するbell hooks先生だって、論文でこの概念を説明するのに何ページも使ってらっしゃる。


独自の文化が日本の魅力だとは重々承知、
だけれども、複雑な概念をサクッと漢字の塊に単純化するのはやめた方がいいと私は思う。

訳せないものはそのままで、
サクッと説明できないものもあるのだという現実を受け止めたらどうだろうか。


言葉は便利だけれど、この世には言語では説明できないことが山ほどある。
その方が多いと個人的には思う。
敬愛する京極先生もそうおっしゃっていた。